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書庫

書庫 【壱】

これまでに『街かど歴史資料室』は様々なメディアに取り上げられております。
こちらのコーナーでは、そういった資料を始め室長が厳選した情報等を掲載していきます。
どうぞ、ごゆっくりご覧くださいませ。



東京地下鉄散歩

大正の終わりから昭和の初めにかけて、鉄道網の発達により都市東京では新しく地下鉄が開通となった。

東京地下鉄の前身である東京軽便地下鉄道が政府から免許を交付されたのは大正8年11月17日であるが、東京地下鉄道と称号を変更後第一期工事区 浅草〜上野を起工したのは、大正14年9月27日、同区間の開業は昭和2年。

1927年12月30日浅草〜上野間2.2キロが開通。

1.写真は東洋唯一地下鉄道上野停車場開通年の暮の賑わい
 かつて上野の地名の由来には諸説がある。
江戸住吉図説には、もともとこの地は小高い丘にて草生い茂りたる地、つまり高台で上が野原になっているので上野と言ったというのである。

2.写真は田原町停車場入口開通時の情緒ある街の風景
 田原町は、浅草広小路の西詰に南北に分かれ、一丁目から三丁目まであった。
台東区雷門は一丁目。

田原町の町名の由来については、往昔千束郷(せんそくごう)広沢新田の内にして浅草寺領の田んぼなり。

かつて町は紙漉(かみすき)を生業としていた。俗に紙漉町とも呼ばれた。

写真で見るレトロな街の面影も今や国際都市地下鉄道に移り変わった。

東京地下鉄散歩11024
1.上野停車場開通年の暮の賑わい

東京地下鉄散歩21024
2.田原町停車場入り口開通時の情緒ある街の風景

東京地下鉄散歩31024
十銭白銅を入れる自動改札口

東京地下鉄散歩
写真:街かど歴史資料室所蔵 文:参考文献資料より
2018.12.22



草軽ロマン紀行

写真はかつて草軽高原で銀幕映画の舞台になった高原を走る軽便鉄道です。

大正4年(1915)7月19日、新軽井沢〜小瀬温泉間に小型蒸気機関車が登した。
同15年9月には新軽井沢〜草津温泉全長55.5kmが開通した。
昭和14年(1939)社名は草軽電気鉄道に改められた。
草軽電鉄は昭和37年1月31日で廃止。

・昭和6年 女優田中絹代さんが主演「マダムと女房」
映画は草軽の軽便鉄道と浅間高原を舞台にしている。

・昭和25年 高峰秀子さん主演「カルメン故郷に帰る」
北軽井沢駅軽便鉄道と浅間高原が映画でクローズアップ。

・昭和32年 菅原都々子さん主演主題歌「月はとっても青いから」
映画では草軽の情緒ある風景を全国へ

・昭和34年 森繁久彌さん主演岡田茉莉子さん助演映画「山鳩」
小瀬温泉駅が舞台となった。

映画の黄金期には草軽高原は銀幕の舞台として全国へ知れ渡った。

草津高原鉄道1280

草軽ロマン紀行
写真:街かど歴史資料室所蔵 文:参考文献資料より
2018.10.27

レトロな馬車道の旅路

写真は手彩色明治時代の横浜馬車道通りです。
馬車は安政6年(1859年)開港直後に外国人が持ち込んで使っていたとされる。

これまで日本には荷車として牛の引く牛車、人の引く大八車、ベカ車があった。

かつて文明開化のレトロな街横浜の面影も今や時代の流れとともに街は国際都市へと移り変わった。

レトロな馬車道の旅路12801

レトロな馬車道の旅路12802

レトロな馬車道の旅路
写真:街かど歴史資料室所蔵 文:参考文献資料より
2018.9.5

荒川の長閑な旅路

荒川は奥秩父の主峰甲武新ヶ岳に源を発して埼玉県を貫流して都内に入り、隅田川となって東京湾に注ぐ。全長177キロ。

江戸時代にはたびたび下流に水害を起こしたので寛永6年当時関東郡代伊奈半十郎忠治が熊谷市久下において元荒川を閉め切り入間川に合流した。こうした努力にもかかわらず、江戸ではいくたびも洪水の被害にあった。明治43年の関東大洪水の被害に鑑みて翌年より荒川改修工事が始まり約25年の歳月を経て現在の荒川放水路の完成を見る。

写真には旅芸人の一座は手には月琴、太鼓や鉦(かね)を持ち、長閑な春の日和荒川堤で掛茶屋、桜並木を背景に一座の佇む姿です。

昔懐かしいレトロな荒川堤の面影も時の流れとともに今や近代都市へと移り変わった。

荒川の長閑な旅路

荒川の長閑な旅路
写真:街かど歴史資料室所蔵 文:参考文献資料より
写真資料は手彩色写真
2018.2.27

東京江戸川雪見紀行

かつて江戸では浮世絵師によって数多くの江戸名所の浮世絵が描かれた。写真は明治期頃の雪景色(半彩色)です。
江戸川は神田川上水が文京区関口台町付近で堰が止められていて、その余水が流れとなり飯田橋で濠の水を合せて神田川となる川である。
御府内には江戸川は神田上水の枝流なり関口水道町西にて分流し大抵東流して中ノ橋、竜慶橋の中ほど小名大曲りという。
これより南流と成りに船河原俗にどんどん橋という。
今や古き良き時代の江戸の風情をもつ江戸川の懐かしい面影も時の流れとともに街は大都市へと移り変わった。

江戸川の雪景

江戸川の雪景
写真:街かど歴史資料室所蔵 文:参考文献資料より
2017.12.13

市電が語るロマン紀行赤坂

東京赤坂の地名の由来
赤の染料となる植物(あかね)を産するあかね山、赤根山への坂という説と、赤土の坂だったからとの説がある。

かつて江戸城外郭門のひとつに赤坂御門があった。
敵の侵入を発見する目的でもある見附門、現在でもこの付近を赤坂見附と呼ぶ。

時に寛永13年(1636)には石垣が築かれ、同16年(1639)には門が完成した。

写真は赤坂見附右端が赤坂御門のあった場所。桜並木の向こう側が弁慶堀、左奥の建物はコンドルの設計で明治17年に竣工した北白川宮邸。昭和30年に赤坂プリンスホテルとなる。

レトロな古き良き時代の赤坂見附の面影も時の流れとともに首都高速の発達により今や花形の国際都市へと移り変わっている。

Release of Edo-Castle at Akasaka

市電が語るロマン紀行赤坂
写真:街かど歴史資料室所蔵 文:参考文献資料より
2017.11.06

レトロな東京万世橋駅の旅路

万世橋停車場が開業したのは明治45年4月1日、写真は駅前より御茶ノ水駅方面を望む。
万世橋駅舎を設計したのは辰野金吾氏と葛西万司氏により、日本初の本格的な駅前広場を持つ駅だった。
時の東京府知事大久保忠寛氏は万世橋(よろずばし)と命名したが、みな読めずに(まんせいばし)と呼んだのでいつの間にかそう呼称されることになった。

今や古き良きレトロな時代の万世橋駅の面影も時の流れとともに街は近代都市として移り変わっている。

万世橋停車場と広瀬中佐銅像

【東京名所】万世橋停車場と広瀬中佐銅像
写真:街かど歴史資料室所蔵 文:参考文献資料より
2017.06.26

ちょっとひと息 ★

鐵馬&鐵姫食堂は、国道50号線岩宿の信号を日光大間々方面へ北へ向かうと左側に食堂と岩宿野菜直売所が位置している。
店は地元の人や県外からの観光客で賑わい栄えている。
街道の名物としてチャー丼、もつ焼きは大人気です。

IWAJUKU community base
ROCK INN RADIO
みどり市笠懸町阿左美1843-4
営業時間:10:00〜19:00
定休日:火曜日
電話:080-5521-5013
※電話での注文も受け付けております。

街かどよりご紹介

堀切江戸紀行

東京堀切はかつて江戸時代には農業のかたわら草花の栽培をして収入をはかる農家が多かった。

文化年間の頃、堀切村の伊左エ門は特に花菖蒲の栽培に熱心で、天保の頃には多数の名花がそろい菖蒲園として江戸の人たちの間ではもてはやされていた。
当時の光景は広重の浮世絵名所江戸百景にも描かれている。

今や古き良き時代のレトロな面影も時の流れとともに菖蒲園も都立公園となる。

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写真は明治時代の彩色
写真:街かど歴史資料室所蔵 文:参考文献資料より
2017.04.24

ちょっとひと息 ★ 国道50号阿左美沼ロマン紀行

国道50号阿左美信号の桐生街道を東へ向かうと風光明媚な阿左美沼に出る。
かつて昭和レトロ30年代の頃の阿左美沼ではボートが浮かび、赤城山を背景に舟遊びで当時は賑わった。
今や阿左美沼では冬は赤城の雪景色、春は河津桜、秋は名月、四季折々の自然の中で優美な野鳥の宿として賑わっている。

向島花見紀行

東京・向島は古くは牛島とも呼ばれ、元禄年間の頃より本所と改められた。

江戸時代八代将軍徳川吉宗の頃に墨田の堤に桜が植えられたことから、江戸一番の花見の名所となり、掛け茶屋がつくられ長明寺の桜もちは隅田川の名物であった。

今や古き良き時代の江戸情緒の面影をもとめ、町は東京下町散歩で賑わっている。

隅田川11

春の花見風景を背景に粋な隅田川の舟遊び

写真:街かど歴史資料室所蔵 文:参考文献資料より
2017.02.27

2016年10月29日フジTV『有吉くんの正直さんぽ』に資料提供を行いました。

ちょっと一息 ☆ 【ご案内】粋な写実絵画の展示

レトロな桐生明治館は、美しい赤城山を背景に群馬を表す西洋式古建築が佇んでいる。
今や全国各地からロマン紀行の旅路で街は見学客で賑わっている。

時に、レトロな館内では懐かしい銀幕映画の粋な写実絵画の展示が催される
展示期間:平成29年4月27日(木)〜6月4日(日)まで
連絡先:桐生明治館(0277-52-3445)

日比谷公園音楽堂

江戸は維新で改名され東京となった。かつて徳川家康が入府したのは天正18年(1590年)。
入国以前には大手町付近まで大きな入江に臨む漁村が日比谷であった。魚や海苔を取るための「ひび」よりの地名という。

時に明治政府は文明の流れの中で外国人が散歩したり憩いの場所として西洋式の公園を作ろうと設計された。

日比谷公園がオープンしたのは明治36年。
音楽堂が開設になったのは明治38年。

いまや古き良き時代のレトロな日比谷公園の面影も時の流れとともに街は国際都市へと移り変わった。

日比谷公園音楽堂

東京名所日比谷公園音楽堂彩色写真(明治38年頃)

参考文献資料より 2016.12.22

ちょっとひと息 ★ みどり市笠懸町の地名の由来について

かつて源頼朝が建久4年(1994年)4月下野国那須野ヶ原で狩りを催した帰りに新田荘の新田義重の館に数日滞在した。

そのとき義重は頼朝をもてなすため部下の将士に命じて新田原で笠懸の射術をご覧に入れた。
笠懸は鏑馬とともに騎射の式で馬を走らせながら的を射るのだ。
以来その馬場の地を記念して新田原を笠懸野と改称したと伝えられる。

明治22年3月、阿左美村、久宮村、西鹿田村、鹿村、四ヶ村が合併して笠懸村となる。

両国橋旅紀行

両国橋のむかし懐かしい舟遊びも、今や粋な浮世絵の中で江戸の情緒が描かれている。

かつて両国橋が架けられたのが万治二年(1659年)隅田川の東を下総国西側が武蔵国なので両国橋と名付けられた。

江戸の風情を持つ両国橋の面影も時の流れとともに移り変わり、街は近代都市へと変わった。

両国橋旅紀行

写真はレトロな大正期、現在の東日本橋付近から見たもの。
手前の小屋は荷物を関東各地へ運ぶ東京通運汽船『隅田川と両国橋』

参考文献資料より 2016.9.23

ちょっとひと息 ★ 上州銘店ご紹介

上州桐生天満宮の東側の道路に並んで、レトロな食堂(アリス)古民家の中にひっそりと佇んでいる。
店内には、なつかしい日本映画の黄金期を築いた銀幕スターの写実名画が所狭しと展示されている。

店の名物は桐生のソースカツ丼。観光客からも大人気です。
旅の思い出に(アリス)をご紹介 <街かどより>

呑み食い処 ARIS(アリス)
群馬県桐生市天神町1-1-10
TEL:090-7223-1030

上空からの東京上野広小路

かつて江戸では火事をくい止めるために火除け地という広い道が設けられていた。
明暦3年(1657年)の大火の後、御成街道、現在の万世橋より上野公園に至る街道の俗称を拡幅して火除地とした。
この付近を上野広小路と呼ばれるようになった。

時は江戸から明治になり、上野駅の開業とともに上野の山の博覧会花見客の往来で賑わい栄えた街。

今は平成の世、古き良き時代の上野広小路の面影も今では近代都市に移り変わっている。

上野広小路

昭和初期上野広小路上空より俯瞰する万世橋方面の望遠

参考文献資料より 2016.7.1


レトロな街・浅草

古き良き時代の浅草の面影も、今では浮世絵の中で下町の人情豊かな江戸情緒が描かれている。今やむかし栄えた門前町もレトロな人力車で賑わっている。

かつて明治38年10月浅草区の有志の募金で雷門の場所に建造された日露戦の奉祝門丹心斎報国と書かれている写真は東京浅草凱旋門

浅草の地名の由来については、浅草寺の観音像を発見者檜前一族は漁猟のかたわら麻を栽培していたのではないか、麻が植えられていたところから麻草といい浅草になったという説。

浅草橋

参考文献資料より 2016.3.26


東京 向島慕情

いまや古き良き時代の江戸情緒も、時の流れとともに変わり、街は東京スカイツリーで賑わっている。

かつて江戸時代には向島枕橋は橋が二つ枕を並べたように架けられていたので合わせて枕橋と呼んだ。

写真の中では舟運の往来で賑わう風景は水の都・江戸の風情八百松楼という料理屋では、焼き鳥としじみ汁が名物だったという。今ではむかし懐かしい八百松楼付近の面影も東武鉄道の鉄橋がかかり東京への電車の通勤客で賑わっている。

向島慕情

東京名所向島枕橋より浅草を望む

参考文献資料より(写真は明治末頃)2016.1.1


名曲の旅路・東京銀座通り

懐かしいレトロな名曲が生まれた街、銀座。
明治5年9月12日、銀座通り完成より少し早く新橋〜横浜間に日本で初めての鉄道が開通した。

明治7年頃には文明開化の光であるガス灯が立った。
時の流れとともに銀座通りにも鉄道、馬車が開通し、電灯が点く。明治15年頃になると、銀座は東京一ハイカラな通りとなった。

かつてこの地に銀座が設けられたのは、江戸時代慶長17年のことで徳川氏が駿府静岡にあった銀座をここに移したのが始まりとされている。

銀座通り

参考文献資料:東京名所新橋より銀座通り望(写真は明治の後期頃)


江戸日本橋紀行

日本橋はかつては徳川将軍のお膝元の城下町としてにぎわい栄えた街。
江戸日本橋は慶長8年(1603年)創架され、翌年には日本橋を起点として諸国への街道が整備された。

明治維新には、江戸は東京と改名された。明治に入って、日本橋は木の橋からルネッサンス式の石造橋に変わった。
創架以来14代目で明治44年4月3日には渡り初めが行われた。

日本橋

参考文献より2015.07.01

東京名所日本橋
(写真は明治40年代の頃)

2017年2月25日 大阪朝日放送『大阪人の謎“カルチャー”調べてみたらスゴかった“ワォ”!第5弾』に資料提供を行いました。


東京お茶の水ロマン紀行

お茶の水は武蔵野台地が低地に突き出した場所であった。

かつて江戸時代には高林寺の庭から清水が湧き出した。
その水で将軍秀忠がお茶を飲んだことから渓谷一帯をお茶の水俗称したとされる。

時は明治に入って原竜太氏の設計により、鉄骨トラスのお茶の水橋が出来た。開橋当日、樋口一葉は妹の国子と母と連れ立ってやってきたと、一葉日記に記している。

明治37年12月8日東京電気鉄道会社の外濠線、お茶の水〜土橋間が開通。

御茶ノ水

明治40年頃のお茶の水橋の風景

参考文献資料より2015.3.31


思い出の旅路 東京九段坂

懐かしい島倉千代子さんの名曲に、「東京だョおっ母さん」がある。歌の中で九段坂が紹介されている。
かつて、江戸時代には石を積んで9層の石段になっていた坂だった。御用屋敷の長屋が9棟建っていたという。これを九段長屋と呼び坂を九段坂と言った。

明治2年招魂社が建立されたとき、段を取り除いて平らな長坂にした。この九段を路面電車が上り下りするようになったのは明治40年7月6日で、それまで九段坂の上までと九段坂の下までで折り返していた電車がやっと坂を走っていた。

九段坂

東京名所九段坂上より見たる神田方面
(写真は明治40年代の頃)

参考文献資料より2015.1.1


「長閑(のどか)な旅路」

古くから下野国(しもつけのくに)河内郡(かわちぐん)大谷(おおや)地方では、石の里として各地へ石材が出荷されていた。
かつて、江戸時代には鬼怒川の舟運(しゅううん)により、江戸へ大量に大谷石が搬出された。

明治29年(1896年)宇都宮市材木町から大谷まで人車軌道が敷設された。一般乗客並びに貨物の運搬を開始した。
大正14年(1915年)には、日光線鶴田駅に連絡する石材輸送専用の軽便鉄道が設けられたが、後にバス、トラックなどの発達により廃止された。

人車軌道

腹掛け姿の人が客車を押す街の風景
(明治期の宇都宮市材木町から大谷まで)

参考文献資料より 2014.11.1


「高原列車とロマンの旅」

草軽電気鉄道は、標高1,100メートルの高原を走る電車として多くの銀幕映画の舞台に登場している。
草津の「黒岩四郎氏」が創立し、大正3年春に起工して軽井沢〜小瀬間10kmが同4年4月に完成。同6年7月には吾妻まで開通した。

ここから浅間山の麓を北進して、嬬恋(つまごい)まで延長したのは同8年11月。
軽井沢〜草津間54kmが全通したのは大正15年9月15日。

時の流れとともに、昭和37年1月31日惜しまれながら廃止となって姿を消した。

参考文献資料より

貨車と客車を引くデキ12形
写真は大正期頃 2014.9.4更新
緑豊かな高原を抜け客車を引くデキ12形
写真は大正期頃 2014.9.4更新
デキ12形BWデキ12形CLR





桐生タイムス2015年4月9日
「花燃ゆ」ゆかりの瓦版 街かど歴史資料室が入手 2015.4.11更新
瓦版
桐生タイムス2015年1月15日
前橋市教委が来訪「花燃ゆ」楫取素彦の資料 2015.1.16更新
読売新聞2015年4月3日
長州戦争の「かわら版」発見 2015.4.6更新
M_times1280.pngMckd_kaearaban26_1280.png
徳島新聞2014年6月26日
多田家古文書 2014.7.1更新
下野新聞2014年7月6日
日光山の富くじ「興行チラシを発見」2014.7.7更新
多田家古文書日光山の富くじ
青淵澁澤榮一翁写真傳(昭和16年12月1日発行)より
2014.6.25更新
青淵澁澤榮一翁写真傳(昭和16年12月1日発行)より
2014.6.25更新
尾高惇忠富岡製糸場


桐生タイムス2014年4月15日
富岡製糸場木版画 (2014.4.26更新)
富岡製糸場木版画
桐生タイムス2013年12月9日
引札錦絵展
桐生タイムス2014年3月13日
群馬県80年前の災害資料(2014.3.23更新)
桐生タイムス群馬県台風被害
太田タイムス2013年9月7日
中島飛行機製作所&零戦
シャトル(上毛新聞)2013年9月7日
蔵の街 明治の風景
2scan-021_2.jpg2scan-022_2.jpg


太田タイムス2013年8月10日
昭和初期阿左美沼(桐生競艇場周辺)
桐生タイムス2013年8月12日
蔵の街 絵はがき展
2scan-019_2.jpg2scan-020_2.jpg
桐生タイムス2013年7月10日
中国大陸特務機関資料&写真展
上毛新聞2013年7月13日
中国大陸特務機関資料&写真展
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太田タイムス2013年6月1日
大正時代『東武線藪塚停車場の景』
太田タイムス2013年6月15日
明治時代『藪塚温泉』
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太田タイムス2013年5月11日
大正時代『大光院』(子育て吞竜)
太田タイムス2013年5月18日
明治時代『長生館』(旅館)
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太田タイムス2013年4月6日
明治時代『前橋本町通り』
太田タイムス2013年4月13日
明治時代『城沼』(館林市)
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桐生タイムス2013年3月25日
『上州路 春の捕物展』十手や呼子笛ほか
上毛新聞2013年3月29日
江戸、明治の捕物道具展
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